果てしなく待つ神と、決して遅れぬ神の邂逅

―『日常神話大系』第十一巻「時の章」より抜粋―

目次

神話

マテドモコヌシスは、ただ“待つこと”を司る神であった。
古の昔、彼は「誰かを待つ者の心」に宿る存在として生まれたという。

約束されぬ約束を信じ、姿を現さぬ誰かのために、
駅のベンチ、交差点の角、雨の降る屋根の下で——
時の海に浮かぶ舟のように、ただ静かに、ただ永遠に待ち続けていた。

そんな彼のもとに、ある日一通の風便が届く。
差出人の名はゴフンマエイクヌス
一秒たりとも遅れぬ時間厳守の神であり、予定表に生き、秒針と語らう者であった。

「来たれ、明日。午後三時の鐘が鳴る五分前、私はそこに立っている」

その言葉を見たとき、マテドモコヌシスは胸を打たれた。
“来る”と明言された約束——それは、彼の長き神生において初めての出来事だった。

そして翌日。午後二時五十五分。
彼はまだ“待つ心”のままで、静かに立っていた。

そして……
本当に、ゴフンマエイクヌスは来た。
風のように現れ、影の伸びる方向にすら遅れを許さず。

「お待たせしました……と言う必要は、ないでしょうね」

その瞬間、マテドモコヌシスは微笑んだ。
だが、その笑みの裏に、ほんのひとすじ——寂しさが漂ったという。

なぜなら、“待つ”という営みが、叶ってしまったからだ

彼にとって、待つことは祈りであり、詩であり、存在そのものだった。
そしてその詩は、予定通りに完結してしまったのだ。

そして、マテドモコヌシスは手紙をしたためた。
その宛先は不明。
ただ一言、こう綴られていたという。

「ちょっとは遅れて来てほしかった」

この逸話は、現代でも「待ちぼうけの悲哀」として語り継がれている。
人々が誰かを待つとき、どこかでマテドモコヌシスがそっと佇んでいるかもしれない——。

神話的教訓

「待つことは祈りであり、待たせないことは敬意である」

この神話は、時間の尊さと、出会いの機微を描いています。
果てしなく誰かを信じて待ち続ける者と、決して遅れない者。
両者の邂逅は、「時間」とは何かを問い直す鏡となります。


📜 教訓の要約

「来ると信じて待つ心も、遅れぬように歩む心も、
いずれも同じ、誰かを想うかたちである」


——うそこ大学・日常神話学部『時の交差碑』より

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